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トンボの日々

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2013年 02月 14日

ものがたり・その4

 どれくらい岸辺に佇んでいただろうか。ふと気付くと、梢の向こうに見える尾根から、
今日最後の太陽光が失われるところだった。谷間はにわかに薄暗さを増し、夜の闇が勢力
をじわじわと増しつつある。急に心細くなる。水田へ行かなければ。
 
 蒼い暗がりに包まれた林道を水田へと急ぐ途中、視界の隅、向いの斜面の上をぽつぽつ
と黒い点が漂っているのが見えている。あれはカラスヤンマだ。水田の上にも降りてきて
いるのだろうか。気持ちは焦る。
 林道が谷間を抜け、水田へと続く畦道に差し掛かった時、脇のフクギの植え込みから出
し抜けに黒い物体が飛び出してきた。反射的に荷物を投げ出し、全速力で追う。走りなが
ら竿を伸ばすのは難儀するが、なんとか追いすがり、地面に向けて振り下ろす。かちんと
フレームがアスファルトに当たる金属的な音がして、視界から黒い物体が消えた。
 ネットの中にはカラスヤンマ。今度の個体は翅の黒い部分が少ないタイプだ。呼吸を整
え、真横からの橙色の日差しを浴びながら、畦道を進む。
 今日のもう一つの目標、トビイロヤンマのシルエットを頭の中に思い浮かべる。

 太陽はいままさに水田の向こうに姿を消しつつある。その強烈な亜熱帯の光のに目を細
めると、はるか遠い稲穂の上を、ちらちらと淡白いトンボが見え隠れしている。おそらく
あれがトビイロヤンマだ。もう飛び始めていた!
 西日に向かって畦道を進み、水田地帯に入った頃に太陽がちょうど地中に没した。あた
りは一気に蒼い空気に包まれてゆく。作業を終えた農家の軽トラックが疲れたエンジン音
を響かせ、走り去る。
 荷物を脇に置き、静かに佇んで夕闇に目を慣らすと、視界のあちこちで気配を感じる。
竿を持って、畦道をゆっくりと歩き出すと、見えてきた。さっ、さっと視野を横切る淡白
い気配。トビイロヤンマだ。空色の複眼の残像を残して畦道の脇の水路を飛び去るもの。
時々足元を掠めるものもいる。ヤンマは不規則に飛んでいるようでつかみ所がなく、竿を
振るチャンスは少ない。向こうから直進してくるヤンマに狙いを付けていると、後ろから
別の個体が抜けて、気を取られているうちに見失ってしまう。なかなかネットに入れるこ
とができずにもどかしいが、ここで焦ってはいけない。探すのはトビイロヤンマが集結す
るポイントなのだ。

 濃紺に染まりつつある稲田を睨みながら、淡白い影の集団を求めて歩き回るが、なかな
か見つからない。地平線の上に僅かに残る橙色がしだいに色褪せてゆくさまを見ると、自
然と急ぎ足になってしまう。今日はこのまま終わってしまうのだろうか、、。
 畦道を海の方角へ進むと、農作物の洗い場がある十字路がある。そこを右折した先の黒
々としたイグサ田に、それはあった。背景が黒いので目立つのだろうか。そこには無数の
淡白い影の集団があった。ひとつひとつは自由気ままに動いているように見えるが、全体
としては一枚のイグサ田の上から離れることはなく、まるで一匹の巨大な生き物のように、
ゆっくりと形を変えながら蠢いていた。想像以上の光景に、竿を構えるのも忘れてしばし
見とれる。これが全部トビイロヤンマなのか!いや、よく見るとその群の上にぽつんと黒
い影が漂っている。あれはカラスヤンマだ。
 カラスヤンマが眼に入った時、気持ちが切り替わった。竿を淡白い集団の中に突き出す。
しかしこれはひとつひとつ狙う、という状況ではない。ためしに群の中に入れた竿をぶう
ん、ぶうん、と左右に振ってみた。振るたびに、竿の先でかさっ、かさっと小さな音がす
る。しばらく同じ動作をしたあとに手元にたぐり寄せてみると、ネットの中にはいくつも
のトビイロヤンマが暴れていた。その中のひとつを手に取ってみると、澄んだ空色の複眼
が、僅かな残照を映し出している。トビイロヤンマの雄。この色を見るといま自分が亜熱
帯にいることを実感する。
 ネットの中の数匹を三角紙に入れると、既に気持ちが満ち足りていることに気付いた。
まだヤンマは飛んでいるが、もう竿を突き出す気になれない。心が落ち着くと、色々な音
が静かに耳に流れ込んでくる。水田や茂みのあちこちから、聞こえるシロハラクイナの叫
び声や、タマシギの雌が雄を呼ぶ甲高い声。遠くの植え込みではクビキリギスやタイワン
クツワムシの単調な声が響いている。周囲は夜の音で充満していた。

 竿を仕舞い、荷物を手に背負ってバス停へと歩き出す。足が重い。海からの生暖かい風
が舐めるように全身を包み、そして去ってゆく。シャツは汗でべっとりと皮膚に絡みつい
ている。思ったより疲れているようだ。
 家々から微かに流れてくるのは、テレビや夕食の支度の音。そしてたまに三線の乾いた
音。さっきまでいた生命の気配に満ちた水田とは、別世界の生活の音。
 その生活の音世界の中を抜けると、オレンジ色を帯びた街灯の下のバス停に到着した。

by brunneus | 2013-02-14 13:51 | つぶやき | Comments(0)


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