2013年 03月 03日
部屋へ戻ると、宿のオバアはもう起きていた。 これから向かうポイントは、徒歩では遠すぎる。タクシーはこの地域にはないことは事 前に分かっていた。唯一の移動手段は自転車なのだ。 「すみません。あの、自転車を貸して頂けないでしょうか」 「あ?自転車?あるよあるよ。ちょっと待っていなさい」 小肥りの、眉毛の濃いオバアはそう言い残すと、勝手口の裏へ消えた。 「はい、これが上等さあー」 オバアが引いてきたのは、確かに自転車だった。しかし、それは自転車を使うに当たっ ての機能の大部分が何らかの問題を抱えているだろうことは、一見して分かった。 金属の部分はことごとく潮風で錆び、ブレーキを握ってもレバーはびくともしない。所 々にへばり付く塗装の残骸で、元々は鮮やかなペイントが施されいてたことが分かる。タ イヤは空気が抜け、ごわごわと不快な音がする。シートが低いので高さを調節しようとし たが、ネジが錆び付いていて全く動かななかった。この自転車で延々国道を走ることを考 えると、少し気分が落ち込んだ。 部屋へ戻り、準備を整えて自転車にまたがると、がらがらと玄関を開ける音がして、オ バアが駆け寄ってきた。何か自転車に問題でもあるのだろうか。 「これを持っていきなさい」 オバアはそう言い、おもむろに手にした紙袋を差し出した。紙袋はずっしり重い。中身 を見ると、ゲットウの葉に包まれた、大きなジューシーのおにぎりが入っていた。 太陽は既に水平線上に昇り、海岸沿いを走る国道に容赦なく熱を帯びた光を浴びせてい る。しかしまだ光の威力は弱く、海風が吹くのでさほど苦しくはない。それよりも、いく ら漕いでも一向に前進していない錯覚に陥るほどに遅い自転車に苛立つ。日差しで長靴が 熱せられて、足が燃えるように熱い。 永遠にも思える国道から分岐すると、ポイントがある谷間が見えてきた。サトウキビ畑 を抜け、森の中に入ると鼻先を甘い香りがくすぐる。花のように甘ったるくはなく、どこ かシークヮーサーのような、輪郭のはっきりした香り。沖縄の森に来るといつもこの香り がするのだが、その発生源はいまだに分からない。 道はくねくねと曲がりながら、谷の奥へと入ってゆく。時々、全身を金緑色に輝かせな がら、リュウキュウツヤハナムグリが通り過ぎる。林道は一旦上り坂になり、再び下ると 目的のポイントに到着した。 ポイントは川沿いに開けた空間で、周囲はまるで密生したブロッコリーのような亜熱帯 の常緑樹の森にぐるりと囲まれている。そしてそこから響く、クマゼミの唸るような合唱。 ひとつひとつの音は掻き消され、森全体が唸るような音波を発している。そして時々、近 くで遠くで聞こえるリュウキュウアブラゼミのヒステリックな叫び声。空高く昇った太陽 の熱と光の圧力に曝されながら、セミたちが発する音を聞いていると、まるで亜熱帯の森 が自分に向けて全力で威嚇しているような敵意さえ感じる。 亜熱帯の森の熱と音の攻撃に堪えかね、自転車とともに木陰に逃げ込む。リュックから シークヮーサーのジュースを喉に流し込むと、爽やかな甘味とともに身体の芯が一気に冷 やされていくのを感じる。うまい! 頭上の梢の遥か上空には、黒い点が所々に浮いている。カラスヤンマ。気温が上がると 高いところを飛ぶようになってしまい、手が出せないのだ。時々、視野を猛速で横切る黒 っぽいトンボはリュウキュウトンボだろうか。その向こうをのんびり飛ぶ大きく華奢なシ ルエットは、カラスヤンマの雄だ。 しばらく上空を眺めていたが、トンボの状況に変化はない。じわじわと皮膚から熱波が 体内に侵入し、体力を奪っていくのを感じる。身体を冷やす必要があった。 川へ下り、水面の乱反射に目を細めながらじゃぶじゃぶと対岸へ渡る。岸辺の草にはベ ニトンボのピンク色が翻り、水面に目を凝らすと燃えるような深紅のアカナガイトトンボ が滑るように飛び回っている。木陰にちらちら見えるのは、リュウキュウルリモントンボ の鮮やかな青色。そしてその上を、涼やかな空色のリュウキュウアサギマダラがふわりと 舞う。色とりどりの光と色の洪水に、しばし見とれる。 荷物と長靴を岸に置き、裸足で川の中に入る。Tシャツを脱ぎ、澄んだ川水に浸し、そ れを頭から被る。びっくりするほど冷たい水が全身を伝い、言いようのない心地よさに包 まれた。
by brunneus
| 2013-03-03 00:10
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